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会長メッセージ

「再び、公認心理師のこと、そして臨床心理士の今後のこと」

兵庫県臨床心理士会 会長  羽下 大信

このたび、新たに会長として選任されました。今期の課題は、大きくは2 つあると考えます。ひとつは臨床心理士の存続のためにできること、ふたつ目は来年度から始まる、公認心理師のための国家試験と、職能としての展望を模索することです。これらは理事会の課題でもあり、同時に、各会員が直面する課題でもあるでしょう。

なお、これらのテーマについては、近畿2府4県の臨士会の会長が集まって、現状に関する情報の共有と意見交換を行っており、今後も継続する予定です。

まず、臨床心理士のこれからのこと。この資格を、国家資格との対比で考えるとき、浮上してくるその価値は、民間の自主的な団体による資格、という点です。心理臨床の仕事は個人の心の自由を確保する仕事とも言えます。それを十全に行うためには、心理臨床家が誰か他者からの管理を受けない、完全にフリーな立場に身を置くことが重要な条件になるでしょう。臨床心理士はこのフリーハンドを確保しているということになります。

試みに、宗教者/団体のことを思い出してみましょう。信教の自由が保障されているこの日本にあっては、宗教者の養成のカリキュラムは各宗教団体が独自に創り出し、実施、認定し、維持しています。また、その活動内容に関しても、誰か他者からの管理、典型的には国家からの管理は全く受けていません。

一方、明治以降で見ると、法律、医療、教育など、専門実務者養成は公教育として国家管理のもとにあるのが、この日本の特徴です。臨床心理士の養成についても同じであることは、ご存じのとおりです(われわれがしばしば比較の対象とするアメリカの場合では、医学、法律などの実務者養成をはじめとする教育一般に関しては、州政府は間接的なコントロールという方針に立っているようで、つまりは、できるだけ民活、という文化があることになります。詳細は未確認)。そして、精神分析の場合では、その養成は全て民間の団体でなされ、営業許可に関しては、州ないしは特定市での試験があります。

われわれ臨床心理士は民間の自主団体であるゆえに、国家から何らかの制限が加えられることはなく、同時に、業務命令として何らかの活動を要請されることもありません。国は臨床心理士の活動に関しての許認可の主体ではないので、「○○で、○○の活動をするので、現地へ○○とともに行ってください」という要請をしようとしても、その根拠は存在しません。それゆえ、たとえば災害支援などの際に、その派遣チームの中に臨床心理士が入っておらず、また、被災地の学校へのスクールカウンセラーの派遣は「募集」であり、われわれはそこに「応募」するという自主的な活動の形をとることになります。

この点については、「それでよし、そうであるべき」とするスタンスと、災害や事件のときには自分たちの名称も「かぞまえられたい」(一人前に数に入れてもらいたい)、残念であるとする、両方のスタンスがありえます。みなさんはどちらでしょうか?

臨床心理士のもう一つの特徴は、20年以上にわたる活動によって、社会の中に分け入り、対人援助を必要とする人たちや、こうした側面で活動する人たちとの関係を創り上げてきた経緯があり、これは世間的に言えば実績でしょう。そこには相手方の失望の部分もあったはずですが、信頼もまた得てきたと考えてよいと考えます。

そしてもし、われわれがこの失望の部分に対して、機敏に、そして常時、振り返りや反省を向けることができれば、その程度に応じて、それは信頼へと繰り上げられて行くことでしょう。対人援助者は失敗から学び、成功からは自信を得る、ただし、次がうまくいくという保証はない。こうした繰り返しのサイクルの中に、次なる仕事がやってくる。そうした20数年だったし、これからもそうありたいと考えます。

臨床心理士の養成大学院は、これからは減少するでしょう。各大学は「公認心理師」養成に向けて、鋭意、リセット中です。ただ、公認心理師が大学のカリキュラムを終えて登場するのは(以前にも触れたように)、7、8 年後になります。したがって、いま現在、臨床心理士で、「公認心理師」資格を取得する予定の方は、来年度から始まる受験のための講習を受け、受験することになります。ただ、この場合、臨床心理士だけが受験に有利ということは全くありません。他の受験資格者と全く同列です。

先般のわれわれ兵庫県でのアンケートを参考にすると、両方の資格を持つという、いわばダブル資格のスタンスの方が中心で、実質的なあり方としては臨床心理士としての活動を続ける人が相当数存在し続けると推測でき、この事態は当分は続くことになると思われます。こうした方向をスムーズにするためには、たとえば、1)臨床心理士会の法人化、2)独立の事務所の設置、3)それぞれの領域や業務内容に特化した研修プログラムの立案とその実施などによって、他資格との差別化を図る、などが考えられます。

一方、公認心理師がスタートすると、変わって行く事態もあるはずです。対人援助職の国家資格者として先行的な事態を生きる、精神科医、精神看護、また、PSW の方々と国家との関係をラフながら見てみると、たとえば精神障害者に対する国家施策と先ほどの団体が、当事者の人権を巡って、ときには厳しく対立する事態がしばしばあることがわかります。公認心理師の場合も、その養成や業務内容に関して、別の形で、同じ問題が起きると思っておく必要があるでしょう。失われるものと得られるもの、それは徐々に姿を現すことになるはずです。

ここで、歴史的な事実を挙げてみます。われわれの「心の自由」を、先人たちはいかに確保しようとしたかの例です。「無縁寺」(通称、縁切り寺とも)。日本中世史家の網野善彦はその著書『増補無縁・公界・楽』(講談社)で、粘り強いフィールド・ワークと古文書の紙背をも読みとおす凄味を持って、「無縁」の概念に息吹を吹きこみました。彼によれば、平安末から鎌倉期をとおして、時の権力者がスポンサ―となって造った寺ではなく、彼らが勢力を持つ以前から、土地を確保し、民間の資財を投じて造り維持してきた、それゆえ権力者が踏み込めない寺、「無縁寺」の存在について書いています。越前・多良之庄での時の権力者が出した無縁寺への安堵状(その存在を認める許可証のようなもの)が残っています。網野はこれを、それまで理解されてきたような、単なる上から下への一方的な許可証なのではなく、許可することなしには互いの安定した関係が維持できないほどのものだった、そういった関係の在り方と状況から出たものである、という画期的な見解から、状況を読み取ろうとしています。この彼のスタンスに関しては、日本の歴史学がようやく「御用歴史学」から脱したエポックメイキングなものとする評価があります。

網野が言っているのは、民衆の側が維持しているものに対して、時の権力者がその存在を認めるしかなかった、そうした形での民衆による自治の場が存在した。支配されない民衆同士の関係の場、さらにはまた、世間とのしがらみ(借金や清算できない関係)という縁から切れる場、それが「無縁」なのだ、ということです。つまり、無縁寺とは、ひとりの個人の、最後の「心の自由」を確保しようとする先人の努力によって維持されていた場だったことになります。何と、示唆的ではありませんか。

翻って、われわれのこれからにおいてはどうでしょうか。とりわけ、公認心理師において、個人の心の自由に関してそれを保持しようとする時、われわれが払うべき努力とは、どんなものになるのでしょうか?スタート以前故に、それはいまだ形を現してはいませんが、おそらく、その実行においては、不断のそして、それなりの覚悟が必要であることは確かです。それが欠けたところでは、心の自由は失われてしまいます。また、同様の努力は精神科医、精神看護者、PSW の方々によって、これまでも重ねられてきたところです。

網野によれば、無縁寺を始め、広く点在した無縁の場、たとえば自由都市・堺や博多も、時の権力の介入を許さない自治を確保していたが、それを維持する条件が失われ、あるいは崩され、やがて消え去って行ったといいます。これはノスタルジックな追憶ではなく、対人援助者としての今の私たちが学ぶべき、重要な過去の事実なのです。

さて、公認心理師のこと。公認心理師の団体は、臨床心理士会とは全く別の、独自のものとして設立運営されるべきでしょう。メンバーの多くが重なるとしても、互いは別物と考えるほうがよさそうだからです。先般、明らかにされ、この9 月には確定する予定のカリキュラム(案)を見るとき、最も目立つのは、実習が、大学(80 時間)・大学院(450時間)とも、医療機関でのものを「必須」としている点です。カリキュラムはアップ・ツゥ・デイトの心理学全般を広く学ぶ、ある意味、素晴らしすぎるくらいの案ですが、この「必須」条件は、このカリキュラムが医療に特化した心理士の養成であることを如実に示している。僕には、そう見えます。

もしそうなら、これは、従来望まれてきたような心理臨床領域に汎用の資格ではなく、さらにいえば、医療領域以外では(実習は医療以外の領域も含んではいますが)、極めて使いにくい設定になっているようだ、ということです。そうした意味で、両者は別物、と考えます。

そもそも、病気=治療モデルを軸とする医療のパラダイムと、発達=刺激モデルを軸とする心理学のパラダイムは、両者の接点は小さいものなのではないでしょうか。一方で、臨床心理士の仕事の現況としては、医療保健領域で仕事をする人は、(非常勤が中心だけれど)推計で全体の39%、23,000〜24,500 人と、最大の割合(*)になっています。これをどう見るか。医療費の全体の圧縮と特化の中、この数字は更なる仕事の拡大と収入の増加への希望なのか、それともこれを上限として、合法的に圧縮へ向かうのか。

心理学は医療・保健領域に貢献はできるが、医療・保健領域のために存在するのではない。それは確かです。では、われわれ心理学の軸は何なのか?この数字はそのことをわれわれに突きつけてくる。僕はそう、思っています。

*「心理職の役割と明確化と育成に関する研究」(H.26 年度 厚生労働科学特別研究事業 主任研究者:村瀬嘉代子)

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